「結婚ですか……? やはり伯爵家の当主になるには、そのような条件も必要になるのですね」頷くイレーネ。「ええ、そうなのです。マイスター伯爵家は商事会社も経営しております。そして、取引先の会社経営者も愛妻家の方々が非常に多いのです……」「それで尚更結婚していることがマイスター伯爵家の当主になるための必須条件ということになるわけなのですね?」「はい。そこで今回、このような秘密裏の求人を出すことにいたしました」リカルドは様子をうかがうようにイレーネを見る。ここで勘の良い者ならば、大抵は何を言いたいのか察するのだろうが、イレーネは違う。「そうなのですか……あの、ですがそれと今回の求人の件とどのような関係があるのでしょうか?」呑気で鈍いところがある彼女には未だに何のことかさっぱり分からずにキョトンとした顔をしている。「あ、あの……ここまで言って何かお気づきになりませんか?」驚いた様子でリカルドが尋ねる。「はい、申し訳ございませんが……何のことでしょう?」「え……?」(そ、そんな……まだこの求人の意図に気付いていないのか!? こうなったら、ストレートに言うしかない)そこでリカルドは正直に伝えることにした。「恐らくイレーネさんはメイドの求人だと思い、今回応募されたのでしょう?」「はい、その通りです」「募集要項に何かおかしな点があることに気づきませんでしたか?」「そうですね……24時間体制の勤務だということでしょうか? 基本夜の勤務は無いものの、場合によっては夜勤が入る場合もあるのですよね?」もう募集要項は頭にすっかり入っているので、スラスラと答えるイレーネ。「ええ、そこです。もうこうなったら正直に申し上げます。これはメイドの募集ではないのです。実は、この屋敷の主……ルシアン様の妻になっていただける方を捜していたのです」「そうなのですか。妻……ええ!? つ、妻ですか!?」これにはさすがのイレーネも驚いた。「驚くのも無理はないでしょう? けれど、妻と言っても正式な妻になって頂くというわけではありません。要はルシアン様がマイスター伯爵家の当主になるための……いわば仮初の妻。書類上だけの契約妻になっていただける方の募集だったのです」リカルドは声のトーンを押さえて説明する。「ですが、契約妻なんて……ルシアン様には婚約者や結婚を約束しているよう
「ですが、たとえ一年間だけとはいえイレーネさんには大変負担になることだとは思います。そこで、求人に記載されていた給金よりも上乗せしてお支払いいたします。無事に一年間妻を演じていただけた暁には契約満了時に退職金として三年間毎月30万ジュエルをお支払することを確約いたします。いかがでしょうか? 少し考えてみてはいただけないでしょうか?」リカルドは丁寧に説明した。それはイレーネなら自分が契約妻であることを明かさないだろうと踏んだからだ。何より契約期間満了後は後腐れなくルシアンと離婚してくれそうに思えた。(仮にルシアン様がイレーネさんを気に入り、離婚を望まなければそのまま結婚生活を続けることだって出来るだろう。後は彼女の反応だが……契約結婚なんて、果たして引き受けてくれるだろうか?)リカルドはイレーネの返事を待った。すると……。「まぁ! そんなにお金をいただけるのですか? とても切羽詰まっていたので本当に助かります。ありがとうございます、感謝の言葉しか見つかりません」大喜びでお礼の言葉を述べるイレーネを見て、逆にリカルドは戸惑った。「あ、あの……そんなにあっさり決めてもよろしいのですか? いくら書類上だけとはいえ……仮にも結婚するのですよ?」「ええ、一年間の契約結婚ですよね? 大丈夫、私には夫も婚約者も将来を約束したような相手もおりませんので、何の問題もありません」「ですが、離婚した暁にはイレーネさんの戸籍に離婚歴がついてしまいます。そうなりますと……将来本当に結婚する際に何かと不利な状況になるのは確実なのですよ? それに帝国法により、離婚後三年間は女性の場合再婚を認められません。それでも構わないのですか?」自分で契約結婚を勧めておきながら、あまりにもあっさり返事をするイレーネのことが気がかりになるリカルド。「ええ、良いのです。契約結婚後の離婚で、将来自分が本当の結婚をすることが出来なくなっても構いません。生涯をひとりで細々と生活できるだけのお金があれば十分ですので」自分のように貧しい没落貴族を、好き好んで嫁に迎えてくれる男性などいないだろう。イレーネにとっては、この件で戸籍に傷が付いても一向に構わなかったのだ。一方、焦ったのはリカルドの方だった。「何ですって? それではあまりにも申し訳が立ちません……あ、それならこういうのはどうでしょう?
「それではイレーネさん。ルシアン様との1年間の契約結婚の件、了承していただいたということでよろしいでしょうか?」イレーネに心変わりしてもらいたくないリカルドは念押しした。「ええ、勿論です! 是非ともお願いいたします!」「ルシアン様がどのような方でも……大丈夫でしょうか?」「はい、大丈夫です。元々本当の夫になる方では無いのですよね? 御主人様としてお仕えさせていただきます」ニコニコと返事をするイレーネ。「分かりました。では早速書類にサインをして頂けますか?」「分かりました」頷くイレーネの前に、リカルドは一通の書類をテーブルの上に置いた。「雇用契約書ですね? 拝見いたします」早速書類に手を伸ばすイレーネにリカルドは慌てる。「え? あ、その書類は……雇用契約書ではなく……」「まぁ……これは……婚姻届ですね?」イレーネはリカルドを見つめた。「はい、そうです……イレーネさんにはルシアン様と婚姻していただきますから。この婚姻届が雇用契約書だと考えて下さい」「そうなのですね」「あの……それで、サインする前にもう一度確認させていただきたいのですが……本当に、結婚してもよろしいのでしょうか?」無邪気なイレーネを見ていると罪悪感がこみ上げてくる。リカルドは目を伏せながら尋ねた。すると……「はい、サインしましたのでお願いします」うつむくリカルドの目に、イレーネの名前が記載された婚姻届が目に入った。「え……? ええ!? も、もうサインしてしまったのですか!?」「ええ。そうですが……何か問題でもありますか?」「問題と言うか……結婚というものは人生の一大イベントですよ? それを、この場であっさり承諾してしまわれるとは……」「ええ、こんなに素晴らしい求人を断るはずはありませんわ」「そ、そうですか……」(まさか、躊躇うこと無く婚姻届にサインしてしまうとは……)リカルドは信じられない思いでイレーネを見つめる。「それで、少しお伺いしたいことがあるのですが……よろしいでしょうか?」「ええ、私で答えられるものであれば何なりと」「あの……お仕事の延長ってありますか?」「はい?」一瞬、リカルドは何を問われているのか理解できなかった。しかし、目の前のイレーネはどこか恥ずかしそうに頬を少しだけ染めてリカルドを見ている。その様子に彼は焦った。(ま
面接が終わったのは午後6時を過ぎていた。「私のせいで、このようなお時間までお待たせしてしまい申し訳ございませんでした」イレーネのサインが書かれた婚姻届を封筒にしまうリカルド。「いえ、私が何も連絡も無しに伺ったのですから大丈夫です」散々待たされたことを気にする素振りもなく、イレーネは笑顔を見せる。「ですが、それも募集要項に私以外の誰にも求人の件で来訪した旨を説明しないようにと記してあったからですよね……」リカルドは申し訳なくて仕方がなかった。散々待たせてしまった挙げ句に、今度はこちらの勝手な都合で契約結婚をさせてしまうのだから。「この度はイレーネさんに多大なる負担ばかりかけてしまいました。お詫びと言ってはなんですが、何か今お困りのことがあるようでしたら何なりとお申し付け下さい。私に出来る精一杯のお礼を致しますので」「え……? それは本当……ですか?」その言葉にイレーネは目を見開く。実は先程からイレーネはずっと困っていたのだ。けれど、なかなか言い出せずにいた。何故ならそれは……ぐぅううう〜……突如、静かな部屋にお腹の鳴る音が響く。「え……?」リカルドはその音に驚き、イレーネを見つめる。(ま、まさか……?)イレーネの顔は羞恥心の為か、真っ赤になっている。そしてリカルドの視線に気づき、言いにくそうに言葉を紡いだ。「す、すみません……お腹が……空いてしまって……お恥ずかしいです……」そして俯く。イレーネは今までずっと空腹に耐えていたのだ。途中、リカルドにお茶は淹れてもらったので喉の乾きは無かったが、空腹だけはどうしようもない。何しろ、汽車の中で食事をして以来何も口にしていなかったのだから。「あ……! こ、これは気付かずに大変申し訳ございませんでした! そうですよね……。今までずっと私が来るのを何時間もこの部屋でお待たせしてしまったのですから……お待ち下さい! 厨房に行って、今すぐ口に出来る食事を用意するように伝えてまいりますので!」「あ、あの。そんなに慌てなくても私なら大丈夫ですよ……?」リカルドのあまりの慌てようにイレーネは声をかける。「いいえ、そうはまいりません。どうぞこちらのお部屋でお待ち下さい。15分……いえ、10分以内に必ず戻ってまいりますので!」「え? あ……はい、分かりました」「それではできるだけ早く戻ってま
それは今から約15分程前のこと――「ふぅ……」憔悴しきった様子で、この屋敷の当主ルシアン・マイスターが帰宅してきた。「お帰りなさませ、ルシアン様」「ああ、ただいま」迎えに出てきたフットマンに帽子と鞄を託すと、ルシアンは首を傾げた。「リカルドはどうした? いつもなら彼が迎えに出てくるだろう?」「はい、リカルド様は応接室でお客様とお話中です」「リカルドに客……? 俺の客ではないのか?」ネクタイを緩めるルシアン。「さぁ……どうなのでしょう? でもその女性はリカルド様を名指ししてきたそうですが」「何? 女性……? リカルドが会っているのは女性なのか?」「は、はい。そうですが……」フットマンはリカルドが眉をひそめたので、遠慮がちに返事をする。「……分かった。帽子と鞄を頼んだぞ」「はい」ルシアンは、何も事情も知らないまま応接間へと向かった――**応接間の近くで足を止めたルシアンは開きっぱなしの扉を見つめた。「何だ? 扉が開けっ放しではないか……もしかして客というのは帰ったのだろうか? だったら迎えに出てくればいいものを……大事な話があったのに……ん?」何気なく応接間を覗き込んだルシアンは目を見開いた。ソファの上にブロンドの長い髪の若い女性が座っていたからだ。(もしかして、彼女がリカルドの客人なのか……? だが、その割には何故ひとりで部屋にいるんだ。一体どういうことだ? いずれにせよ、この屋敷の当主として何者か確認しなければ)そこでルシアンは応接間の中に入ってくると、声をかけた。「誰だ? 君は」その声は意外なほどに静かな応接間に響き渡った。「え?」気を取られていたイレーネは突然声をかけられ、少しだけ驚いた。そして扉の前に立つルシアンに気づく。(誰かしら? あの男性は……あの姿を見る限り、フットマンには見えないし……でも困ったわ。リカルド様以外には来訪した理由を告げてはいけないと言われているのに)イレーネは何と答えれば良いのか分からず、考え込んでしまった。もとより、少し呑気でありながら真面目なイレーネ。契約妻になるための婚姻届にサインしたにも関わらず、リカルドとの約束が頭から離れない。「君……聞こえているのか? 誰だと尋ねているのだから、質問に答えるべきではないのか? それとも君は私がこの屋敷の当主、ルシアン・マイスタ
「き、君は一体何を言っているんだ……?」予想もしていなかった言葉を耳にしたルシアンはあまりのショックに足元がよろけ……。ドンッ!!壁に激しく身体を打ち付けてしまった。「う……」思わず呻くルシアン。「だ、大丈夫ですか? マイスター伯爵様」これには流石のイレーネも驚き、声をかける。「だ、大丈夫かって……? 大丈夫なものか! 一体、君は何を言っているんだ? 期間限定のお飾り妻だって? しかも……この俺の!?」ルシアンはイレーネを指さした。「はい……そうですけど……?」キョトンと小首をかしげるイレーネ。そこへタイミング悪く? 笑顔のリカルドが現れた。「イレーネさん、お待たせいたしました。サンドイッチをお持ちし……あーっ!!」トレーにサンドイッチを乗せたリカルドと、壁にもたれかかっているルシアンの目があった。「リカルド……お前、一体どういうつもりだ……?」ルシアンは怒気を含んだ声音でリカルドを睨みつけた。「あ、あの……こ、これはですね……」(そんな! ルシアン様は……週末まではこの屋敷に戻らないはずだったのに!!)焦るリカルドと、怒りを押さえているルシアンの間に緊張が走る。「まぁ、リカルド様。サンドイッチを持ってきてくださったのですね? ありがとうございます!」そこへ、イレーネの嬉しそうな声が響いた。「「え?」」その声に驚き、リカルドとルシアンは同時にイレーネを振り返る。すると、ニコニコと笑みを浮かべたイレーネの姿が2人の目に映った。「は……? 君、こんな状況で一体何を言うんだ?」半ば呆れるルシアン。「は、はい。そうです。おまたせして申し訳ございません。イレーネさん」一方のリカルドの方は、これはチャンスとばかりに、そそくさとイレーネに近づく。「お、おい? リカルド!」ルシアンの呼びかけに気付かないふりをしてリカルドはイレーネのテーブルの前にサンドイッチの乗ったトレーを置く。「イレーネさん。このサンドイッチはマイスター家のシェフが直々に用意したサンドイッチです。出来立てのうちにお召し上がり下さい」「まぁ、そうなのですか? まさかお食事まで用意していただけるとは思いませんでした。本当にありがとうございます。なんて美味しそうなのでしょう」イレーネは目の前の豪華な具材のサンドイッチに釘付けだ。「そんなに喜んでいただける
書斎机の椅子にドサリと座るなり、ルシアンはリカルドを問い詰めた。「一体どういうことだ? リカルド。あの女性は何者だ? 自分のことを俺の期間限定のお飾り妻だと言ったのだぞ?」「ええ!? そ、そんなことをイレーネさんは言ったのですか? クッククク……な、なんてユーモアに溢れているのでしょう……」リカルドは可笑しくてたまらず、肩を震わせた。「……何がおかしいんだ? リカルド。俺は今、非常に機嫌が悪いのだが?」机の前で手を組んだルシアンは、イライラしながらリカルドを睨みつける。「あ! も、申し訳ございません! ルシアン様!」「謝罪の言葉などいらない。それよりも今すぐに、どういうことか説明してもらおうか?」「は、はい……ルシアン様。あの女性……イレーネさんの言うとおりです。彼女はルシアン様の1年間という期間限定の妻になっていただく女性です。私が職業紹介所で幅広い範囲で募集させて頂きました。報告が遅くなってしまい、申し訳ございません」「……」その言葉にルシアンは目を見開き、口をポカンと開く。「あの、ルシアン様? どうかされましたか?」「今……何と言った? 俺の期間限定の妻になってもらう女性を、幅広い範囲で募集したと聞こえたが……? まさか、聞き間違いでは無いよな?」右手で額を押さえながら尋ねるルシアン。「はい、聞き間違いではありません。その通りです。尤も幅広い範囲というのは、あくまで距離のことです。一応、条件は絞らせて頂きました。年齢は18歳から23歳。これはルシアン様が24歳だからです。そして未婚で婚約者や恋人がいない女性ということで募集をかけましたので、その点は御安心下さい」「そんなことは聞いていない! 何故、そんな勝手な真似をしたのかと聞いているのだ! 大体、職業紹介所で募集するとは何事だ!」ガタンッ!!ルシアンは怒りのあまり、椅子から立ち上がった。「勝手な真似をしたことは、謝罪致します。ですが、何故私がこのような行動に出たかというと、それは全てルシアン様の為を思ってのことなのです」「俺の為だと……?」「はい、そうです。本日は取引先の商船会社に交渉に行かれたのですよね? 先方は何と仰っておりましたか?」「……マイスター家の当主が決定するまでは……取引を停止したいと言ってきた……情勢を見届けてから考え直すと……」苦虫を噛み潰し
30分後――「待たせてしまったな」「どうもお待たせ致しました」ルシアンとリカルドがイレーネの待つ応接間に戻ってきた。「いいえ、この程度の時間など少しも待たされたうちに入りませんわ」イレーネは立ち上がると、ニコニコしながら返事をする。すると、その言葉にたちまちリカルドは申し訳無さそうに謝った。「そうですよね……本日、既に私は5時間もイレーネさんをお待たせしてしまいましたから……本当に申し訳ございませんでした」「何!? リカルド……お前、彼女を5時間も待たせたのか!? そんな話、初耳だぞ!」驚いてリカルドを見るルシアン。すると、そこへイレーネが声をかける。「いいえ、リカルド様は悪くはありません。私がアポイントも無しに、このお屋敷に伺ってしまったからですわ。色々お忙しい方でいらっしゃるのに……こちらこそ申し訳ございません」「イレーネさん……なんて、あなたは心の広い女性なのでしょう……」感動で目をうるませるリカルド。「いいや、いくら何でも5時間は待たせすぎた。……折角訪ねて来たのに、悪かった。申し訳ない」ルシアンはイレーネに謝罪の言葉を述べる。「いいえ、私なら本当に大丈夫ですから。先程だって、格別に美味しいサンドイッチを頂きましたし。何よりも、これほどまでに素晴らしいお仕事に巡り会えたのですから」「仕事……」(俺との契約結婚が、仕事だって……?)その言葉に何やら釈然としない気持ちがこみ上げてくる。そこへ追い打ちをかけるようにリカルドがルシアンの耳元で囁いた。「どうです? 先程、申し上げた通りだと思いませんか? イレーネさんは完全にルシアン様との結婚を仕事だと割り切っています。これほどピッタリの女性は他におりませんよ?」「う、うるさい。お前は黙っていろ。後は俺が話す」イレーネの手前、ルシアンは小声で言い返すと再びイレーネに視線を移し……まだお互いが立ったままであることに気付いた。「そうだった。いつまでも立たせてしまっていたな。掛けてくれ」「はい、では失礼いたします」ソファに腰掛けたイレーネを見届けると、その向かい側にルシアンは座った。「それでイレーネ嬢。早速本題に入りたいのだが……いいだろうか?」「はい、大丈夫ですが……その前に、一つだけ……お話してもよろしいでしょうか……?」言いにくそうにイレーネが口を開く。「ああ、
――18時ルシアンが書斎で仕事をしていると、部屋の扉がノックされた。「入ってくれ」てっきり、リカルドだと思っていたルシアンは顔も上げずに返事をする。すると扉が開かれ、部屋に声が響き渡った。「失礼いたします」「え?」その声に驚き、ルシアンは顔を上げるとイレーネが笑みを浮かべて立っていた。「イレーネ! 驚いたな……。てっきり、今夜は泊まるのかとばかり思っていた」「はい、その予定だったのですがリカルド様がいらしたので、一緒に帰ってくることにしたのです」イレーネは答えながら部屋の中に入ってきた。「ん? イレーネ。足をどうかしたのか?」ルシアンが眉を潜める。「え? 足ですか?」「ああ、歩き方がいつもとは違う」ルシアンは席を立つと、イレーネに近付き足元を見つめた。「あ、あの。少し足首をひねってしまって……」「まさか、それなのに歩いていたのか? 駄目じゃないか」言うなり、ルシアンはイレーネを抱き上げた。「え? きゃあ! ル、ルシアン様!?」ルシアンはイレーネを抱き上げたままソファに向かうと、座らせた。「足は大事にしないと駄目だ。ここに座っていろ。今、人を呼んで主治医を連れてきてもらうから」「いいえ、それなら大丈夫です。自分で手当をしましたから」イレーネは少しだけ、ドレスの裾を上げると包帯を巻いた足を見せる。「自分で治療したのか?」 包帯を巻いた足を見て、驚くルシアン。「はい、湿布薬を作って自分で包帯を巻きました。シエラ家は貧しかったのでお医者様を呼べるような環境ではありませんでしたから。お祖父様には色々教えていただきました」「イレーネ……君って人は……」ルシアンはイレーネの置かれていた境遇にグッとくる。「でも……まさか、ルシアン様に気付かれるとは思いませんでしたわ」「それはそうだろう。俺がどれだけ、君のことを見ていると思って……」そこまで言いかけルシアンは顔が赤くなり、思わず顔を背けた。(お、俺は一体何を言ってるんだ? これではイレーネのことが気になっていると言っているようなものじゃないか!)だがいつの頃からか、イレーネから目を離せなくなっていたのは事実だ。「ルシアン様? どうされたのですか?」突然そっぽを向いてしまったルシアンにイレーネは首を傾げる。「い、いや。何でもない」「そうですか……でも、嬉しいで
高級ホテルの一室で、ベアトリスが台本を呼んでいると部屋の扉がノックされた。――コンコン「帰ってきたようね」台本を置くと、ベアトリスは早速扉を開けに向かった。ドアアイを覗き込むと、すぐにベアトリスは扉を開けて訪ねてきた人物を迎え入れた。「お帰りなさい、カイン。入って頂戴」「ああ」カインは頷くと部屋の中へ入り、疲れた様子でソファに座った。「お疲れ様、それで家の様子はどうだったのかしら?」カインの向かい側のソファに座ると早速質問する。「君は、あの家は空き家になっているだろうと俺に言ったが、人が住んでいたぞ? しかも女性だ」「え? 嘘でしょう?」その言葉にベアトリスは目を見開く。「嘘なものか。あの家には若い女性が住んでいた。ブロンドの長い髪が印象的だったな。……かなり美人だった。それに何故か警察官がいて、職務質問をされたよ」「そんな……あの家に人が住んでいたなんて……まさか、ルシアンは家を手放したっていうの? ずっとこの家は残しておくって約束してくれていたのに……」ベアトリスは悔しそうに唇を噛む。「俺が職務質問をされた話はどうでもいいのかよ……? まぁいい。どうせ君は俺には興味が無いのだからな。家を残しておくという話は2人が恋人同士だった頃のことだろう? とっくに手放していたっておかしな話ではないはずだ。そもそも彼を捨てたのは君の方だろう? ベアトリス……まさか、まだその男に未練があるのか?」眉をひそめるカイン。「……あの時は、別れたくて別れたわけじゃないわよ。彼の祖父は私のことを軽蔑して、私達の仲を反対していたのだから。それに、舞台のオファーは私にようやく回ってきたチャンスだったのよ」「だから、引き止める恋人を捨てて渡航したんだろう? 置き手紙一つだけ残して」「そうよ……だって、本当に必死だったのよ。失ったものは大きかったけど、私はこの通り成功したわ。それも今では世界の歌姫と呼ばれるほどにね」「それで今回かつての恋人がいた地『デリア』に来て、未練が募ってきたってわけか?」「別に未練だとか、そういうわけではないわよ!」ベアトリスはカインを睨みつけた。「だったら何故俺にあの家の様子を見に行かせた? まだ彼が自分を忘れられずに家を手放していないと考えたからだろう?」「……」しかし、その問いにベアトリスは答えない。「君は置
リカルドはとても焦っていた。(一体、あの状況は何なのだ……)自分で馬車を走らせ、リカルドはここまでやってきた。するとイレーネが警察官と共に見知らぬ青年と対峙している場面に遭遇したのだ。(何故イレーネさんは警察官と一緒にいるのだろう? それにあの青年は誰だ? 何やら問い詰められているようにも見える……とにかく、今は隠れていた方が良さそうだ)そう判断したリカルドは、大木の側に馬車を止めてると急いで身を隠して様子を伺っていたのだ。「おや? 帰って行くようだ」少しの間、見ていると青年はそのまま立ち去って行った。そしてイレーネと警察官は何やら話をしている。その姿は妙に親し気に見えた。(気さくなタイプの警察官なのかもしれないな……)そんなことを考えていると、警察官が自分の方を振り向いた。「……というわけで、そこの方。貴方もいい加減出てきたらどうですか?」(え!? バレていた……!? そ、そんな……!)しかし、相手は警察官。下手な行動は取れないと判断したリカルドは観念して木の陰から出てきた。「は、はい……」「まぁ! リカルド様ではありませんか? どうしてそんなところに隠れていたのですか? どうぞこちらへいらして下さい」イレーネが笑顔で呼びかける。「はい、イレーネさん」おっかなびっくり、リカルドは二人の前にやって来た。一方、驚いているのはケヴィンだった。「ひょっとして、お二人は知り合い同士なのですか?」「はい、そうです。こちらの方はリカルド・エイデン様。この家の家主さんです」イレーネは笑顔でケヴィンに紹介する。そう、イレーネから見ればリカルドはこの家の家主に該当するのだ。「え? 家主さんだったのですか!?」ケヴィンはリカルドを見つめる。「は、はい……そうです……」(家主? 確かに私はこの家の家主のような者だが……何故、ルシアン様の名前を出さないのだろう? ハッ! そういえば、お二人は世間を騙す為の結婚……つまり、偽装結婚をする関係だ。そして目の前にいるのは警察官。もしかして偽装結婚は犯罪に値するのだろうか? それでイレーネさんはルシアン様の名前を出さなかったのかもしれない!)心配性のリカルドは目まぐるしく考えを巡らせ、自分の中で結論付けた。「はい、私はイレーネさんにこの屋敷を貸している(今は)家主のリカルド・エイデンです」早
――16時「大分、痛みがひいたみたいね」イレーネは立ち上がると歩いてみた。「これなら農作業用具を片付けられそうだわ」エプロンを身に着けている時。――コンコン突然部屋にノックの音が響き渡った。「あら? 誰かしら? もしかしてルシアン様かしら」イレーネは少しだけ足を引きずりながらへ向かうとドアアイを覗き込み、驚いた。「え? ケヴィンさん?」何と訪ねてきたのはケヴィンだったのだ。イレーネは慌てて扉を開けた。「いきなり訪ねてすみません、イレーネさん」ケヴィンはイレーネの姿を見ると笑みを浮かべた。「ケヴィンさん、一体どうなさったのですか? まだ制服姿ということはお仕事中ですよね?」「ええ、そうなのですが……イレーネさんの怪我が気になってしまって、訪ねてしまいました。大丈夫ですか?」「ええ。自分で手当をしたので大丈夫ですわ」イレーネは包帯を巻いた足を少しだけ上に上げてみせた。「そうでしたか……それなら良かったです。あの、実はコレを届けたかったのです」ケヴィンは恥ずかしそうに紙袋を差し出してきた。「あの、これは……?」躊躇いながら受け取るイレーネ。「はい、ドライレーズンです。確か、今夜はレーズンパンを作るつもりだと仰っていましたよね?」「まぁ……それでは、わざわざ買って持ってきて下さったのですか? それではすぐに代金を支払いますね」イレーネが部屋に取って返そうとした時。「あ! 待ってください!」突然呼び止められた。「どうかしましたか?」「イレーネさん。お金なんて結構ですよ」「ですが、それでは私の気持ちが収まりませんわ」「それでしたら……あの、もしよければ……今度イレーネさんが焼いたパンを僕にも分けていただけたら嬉しいです。僕がパンを好きなのは御存知ですよね?」「そうですね。それでは今、持ってきますね。レーズンを入れていないパンなら、もう焼いていたんです」「本当ですか? ありがとうございます」笑顔になるケヴィンを玄関に残し、イレーネは家の中へ入っていった。「どうもお待たせいたしました。どうぞ、ケヴィンさん」紙袋にパンを入れたイレーネがケヴィンの元へ戻って来ると、差し出した。「うわあ……パンの良い匂いがしますね。それにまだ温かい」「はい、30分ほど前に焼き上がったところですから」「ありがとうございます。味わっ
「どうもありがとうございました」別宅の前に馬車が到着し、イレーネは馬車代を支払うと痛みを押さえて降り立った。「大丈夫ですか? お客様」男性御者が心配そうに声をかけてくる。「ええ、大丈夫です。ご心配頂きありがとうございます」「では、失礼します」互いに挨拶を交わすと馬車は走り去っていった。「……何だか痛みが酷くなってきたみたいだわ。早く治療しなくちゃ」痛む足を引きずりながら、イレーネは家の中へ入っていった――** 帰宅したイレーネは、湿布を作るために台所で材料を探していた。「え〜と、小麦粉にビネガーは……あ、あったわ」早速小麦粉をビネガーと混ぜて練り合わせると用意していたガーゼに塗ると、ガーゼを痛めた足首にそっとあてる。「つ、冷たい……でも我慢我慢」自分に言い聞かせ、包帯を巻きつけた。「……出来たわ。どうかしら?」早速イレーネは少しだけ歩いてみた。「だいぶ痛みは和らいだみたいね。やっぱりお祖父様直伝の湿布は効果があるわ」窓の外を見ると、そこには農作業用道具が畑の側に置かれている。「……こんな状態じゃなければ、マイスター家に戻っていたのだけれど……」買い物から帰宅後は、すぐに畑仕事が出来るように用具を出して出掛けてしまっていたのだ。「痛みがひいたら、片付けをしなくちゃ」イレーネはポツリと呟いた。****「今日もイレーネさんは別宅に泊まられるのですね」仕事をしているルシアンに紅茶を注ぎながらリカルドが尋ねた。「そうだ。……別宅という言い方をするな」ムッとした様子でルシアンがリカルドを見る。「それは失礼致しました」「全く……イレーネはあの家が好きなようだ。毎回楽しそうに行っているからな」「つまらなそうな顔をして出掛けられるより、余程良いではありませんか」リカルドの言葉に、ルシアンは呆れ顔になる。「あのなぁ、俺はそんなことを話しているんじゃない。……もしかして、あの場所には何かあるんじゃないだろうか?」「何かとは?」「それが分からないから、何かと言ってるんだろう?」「ルシアン様……」じっとリカルドはルシアンを見つめる。「な、何だ?」「本当に、イレーネさんのことを気にかけてらっしゃるのですねぇ?」「それは当然だろう? 何しろ彼女とは契約を結んだ婚約者の関係だからな。今月開催する任命式で、正式にイレーネ
イレーネがベアトリスをじっと見つめていた時。「サイン下さい!」突然イレーネの後ろにいた男性が前に進み出てきて、ぶつかってきた。「キャア!」小柄なイレーネはそのまま、前のめりに転んでしまった。はずみで持っていた買い物袋も地面に落ち、袋の中からリンゴがコロコロとベアトリスの足元に転がっていく。「まぁ! 大変!」ファンにサインをしていたベアトリスはリンゴを拾うと、イレーネに駆け寄ってきた。「大丈夫ですか?」イレーネに手を差し伸べるベアトリス。「は、はい……ご親切にありがとうございます」その手を借りてイレーネは立ち上がると、次にベアトリスはぶつかってきた男性を睨みつけた。「ちょっと! 貴方はレディにぶつかって転ばせてしまったのに、手を貸すどころか謝罪も出来ないのですか!?」「え? す、すみません!!」ベアトリスにサインをねだろうとした男性はオロオロしている。そんな男性を一瞥するとベアトリスはイレーネに笑みを浮かべた。「申し訳ございません。お詫びの印にサインをしてさしあげますわ。どれにすればよろしいですか?」「え? サ、サインですか!?」そんなつもりで並んでいなかったイレーネは当然戸惑い……ふと、閃いた。「あの、でしたらこのメモに書いていただけませんか?」イレーネは買い物メモをひっくり返して手渡した。「あら? これにですか?」怪訝そうな表情を浮かべるベアトリス。「はい、まさかこのような場所で大スターにお会いできるとは思ってもいなかったので他に持ち合わせがないのです。でも、額に入れて飾らせていただきます!」「まぁ。そこまで言って頂けるなんて嬉しいわ。ではこのメモにサインしましょう」ベアトリスはイレーネからメモを受け取ると、サラサラとサインをして手渡してきた。「はい、どうぞ」「ありがとうございます……一生の宝物にさせていただきますね」「フフフ。大げさな方ね」そのとき――「劇団員の皆様! お待たせ致しました! 迎えの馬車が到着いたしました!」スーツ姿の男性が大きな声で呼びかけてきた。「行こう、ベアトリス」そこへ黒髪の青年が現れて、ベアトリスに声をかけてきた。「そうね、カイン」そしてベアトリスはカインと呼んだ男性と共に、その場を去って行った。「あ〜あ……サインもらいそびれてしまった……」「やっぱりベアトリスは美
あの嵐の日から、早いもので3ヶ月が経過していた。イレーネは半月に一度は、リカルドから譲り受けた家に通うようになっていたのだった。「それでは、今日もあの家に行くつもりなのか?」朝食の席でルシアンがイレーネに尋ねる。「はい、行ってきます」笑顔で返事をするイレーネ。「だが、何もそんなに頻繁に行かなくても……」言葉をつまらせるルシアンにイレーネは理由を述べた。「あの家は空き家ですから、定期的に訪れて管理をしないと家の維持は難しいですから」「そうか……」正直に言うとルシアンは、イレーネにあまりあの家には通って欲しくは無かった。その理由はただ一つしかない。「心配しなくても大丈夫です。明日にはまた戻りますので」「……分かった。なら気をつけて行くといい」「はい、ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をした。**** イレーネは今夜の食材を買うために、1人で町に出てきていた。「えっと……バターは買ったし……あ、そうだわ。ドライフルーツを買わなくちゃ。今夜はレーズンパンを作るんだったわ」買い物メモを確認すると、イレーネはポケットにしまった。「それにしても、今日の駅前は凄い人手ね。一体何があったのかしら?」駅前には大勢の人々が集結していた。しかも大騒ぎになっており、警察官たちまで警備にあたっている。「もしかして、有名人でも来ているのかしら?」好奇心旺盛なイレーネは、一度気になったものは確認してみなければならない性格をしている。「ドライフルーツは後で買えるものね……行ってみましょう」そしてイレーネは人だかりの方へ足を向けた。**「皆さん! 落ち着いて! 押さないで下さい!」「道を開けて下さい!」騒ぎの中心から大きな声が聞こえている。「サインして下さい!」中にはサインをねだる声まである。「え? サイン? もしかして有名人でも来ているのかしら?」イレーネは誰が来ているのか、見たくても人だかりが出来ているので確認することも出来ない。そのとき――「あれ? イレーネさんじゃありませんか!」不意に声をかけられた。「え?」驚いて振り向くと、警察官姿のケヴィンが自分を見つめている。「まぁ! ケヴィンさん、こんにちは。偶然ですわね」「こんにちは。もしかしてイレーネさん……見物に来たのですか?」「は、はい……。何事か興味があったの
2人で庭の後片付けの作業を開始して約1時間後――「ありがとうございます、お陰様ですっかりお庭が綺麗になりました」イレーネがケヴィンに礼を述べた。「いえ、いいんですよ。地元住民として協力しただけですから。それではそろそろ帰りますね」ケヴィンが軍手を外し、帰り支度を始めるのを見てイレーネは声をかけた。「あ、そうですわ。少し、お待ちいただけますか? すぐに戻りますので」「え? ええ、いいですけど?」イレーネはケヴィンをその場に残すと、いそいそと家の中に入っていった。そして数分後、トレーを手にして戻ってきた。「これ、ほんのお礼です。どうぞ」トレーの上にはグラスに注がれた飲み物に、スコーンが乗っている。「え? 頂いてもよろしいのですか?」「はい、これはミントティーです。疲れた身体にいいですよ? こちらのスコーンも私のお手製です」するとケヴィンが笑った。「アハハハハッ。大丈夫ですよ、僕の職業をお忘れですか? 警察官で体を鍛えていますからこれくらい、どうってことないです。でも折角なのでいただきますね」「ええ。どうぞ」ケヴィンは早速グラスを手に取ると、ミントティーを口にした。余程喉が渇いていたのか、そのまま一気に飲み干しとグラスをトレーに戻した。「さっぱりした味で美味しいです。ありがとうございます。あの、スコーンはお土産に頂いて帰ってもいいですか? 家に帰ってからの楽しみにしたいので」「それでしたらもっと持って行って下さい。まだ沢山ありますので。今取ってまいりますね」「い、いえ。何もそこまでして頂かなくても……」しかしイレーネは最後まで聞かずに家の中に入ると、今度は紙袋を手に戻ってきた。「どうぞ、ケヴィンさん。5個差し上げますわ」そして笑顔で差し出す。「え? そんなに頂いてもいいのですか?」「ええ、勿論です。ケヴィンさんには今までにも色々お世話になっておりますから。どうぞお持ちになって下さい」「……どうもありがとうございます。では、遠慮なく頂きますね」顔を薄っすら赤らめながらケヴィンは受け取った。「それでは僕はこの辺で」「はい、今日は本当にありがとうございました」ケヴィンは馬にまたがると、イレーネを見つめる。「イレーネさん」「はい。何でしょう?」「今日は……一緒に働けて楽しかったです。それでは失礼しますね」「え?
「……本当に、今夜は戻らないつもりか?」夜空の下。車の前でルシアンは真剣な眼差しでイレーネに尋ねる。「はい、戻りません。今夜の嵐でせっかく耕してしまった畑が駄目になってしまったので明日、作業をしたいのです」「だが……もしまた天候が……」「それならご安心下さい、ほら。空をご覧になって下さい」イレーネに言われて顔を上げると、空には満天の星が輝いている。「……綺麗な夜空だ」思わずルシアンがポツリと呟くと、イレーネは笑顔になる。「ね? これだけ星がでているならもう嵐の心配はありませんから」「確かにそうなのだが……なら、俺も今夜ここに宿泊しようか?」ルシアンの脳裏に、涙を浮かべて恐怖で震えているイレーネの姿が浮かぶ。あんな姿を見せられて、ここに1人で残すことがためらわれた。「ベッドは一つしかありませんけど……なら、ルシアン様がお使い下さい。私はソファでも床でもどこでも構いませんから」「何だって? 女性にそんなことをさせるわけにはいかない」慌てて首を振るルシアン。「ですが、私だって雇い主であるルシアン様にベッド以外では休んでもらいたくはありませんわ」「雇い主……」イレーネの言葉に、何故か壁を感じるルシアン。(やはり、イレーネにとって……俺は契約相手としかみられていないのだろうな)じっと見つめるルシアンにイレーネは首を傾げる。「どうしましたか? ルシアン様」「いや、何でも無い。……分かったよ。もう天気は大丈夫そうだからな。帰るよ」ルシアンは車のドアを開けると乗り込み、再度イレーネに尋ねた。「イレーネ。あと何日程でマイスター家に戻れそうなのだ?」「そうですね……3日以内には戻れると思います」「分かった。とにかく……戸締まりだけはしっかりするんだぞ?」「ええ。大丈夫ですわ。ルシアン様も気をつけてお帰り下さい」ニコニコ笑みを浮かべるイレーネ。「……ああ、それじゃあ」ルシアンはイレーネに見送られながら車で走り去っていった。「……本当に、車というものは早いのね……」あっという間に地平線に消えていったルシアンの車を見ながらポツリとつぶやき……欠伸をした。「ふわぁあああ……眠くなってきたわ。今夜はもう休みましょう。明日は朝から忙しくなりそうだし」そしてイレーネは家の中に入ると、戸締まりをした――****――翌朝パンにチ